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明治時代を考えよう3LINK集

近代

伊藤博文は、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、ロエスレルらと憲法制定の準備を開始し、1888年(明治21年)枢密院を設置した。そして、1889年(明治22年)、黒田清隆内閣の時、君主権が強いプロイセン憲法を模倣した大日本帝国憲法が明治天皇から臣下に授ける形で制定された(欽定憲法)。 この憲法に対する当時の評価は高く、国内では「聞きしにまさる良憲法」(高田早苗)などと民権派からの絶賛もあった。また欧米各国の識者からも、実際の運用能力への留保はありつつ、その内容に関しては高く評価された。

熟年

同憲法は、天皇は、第三条で神聖不可侵と規定され、第四条で統治権を総攬する元首と規定された。三権に関しては以下の通りである。第一に、立法権であるが天皇は第五条において帝国議会の協賛を以って立法権を行使すると規定された(つまり、帝国議会は天皇の協賛機関)。しかしその職務は概ね、法律を裁可することのみであり、またその裁可には国務大臣の副署が必要とされた。つまり、大臣副署がなければその法律は無効であり、さらに天皇が裁可を拒むことは形式上可能であっても、事実上は不可能であった。この点は現在のイギリス国王も同じといえる。また、帝国議会は選挙で選ばれる国会議員から成る衆議院と華族から成る貴族院の二院で構成された。

複雑

同憲法の問題は、主なものに以下の二つが挙げられる。第一は、第一一条に規定されている天皇は陸海軍を統帥するという規定であった。内閣や帝国議会は軍部に対し直接関与できなかった(これが、後の統帥権干犯問題を引き起こすこととなる)。第二は、第二一条で規定された法律の範囲内において自由であるという臣民の権利であった(後に治安維持法などで権利の制限を行うようになる)。 また、黒田清隆首相は「政党の動向に左右されず、超然として公正な施策を行おうとする政府の政治姿勢(超然主義)」を示し、議会と対立した。(wikipedia参照)